上部鉄道跡

トッポ作のライフワークの一つ、これが別子銅山・上部鉄道跡

散策です。この存在を知ったのは小学6年生の頃ですから、か

れこれ40年前になります。実際に初めて行ったのは、叔父たち

に連れられて銅山峰に登った中学生の頃です。記憶が正しけ

れば、東平(とうなる)が閉鎖され職員住宅等の撤去がほぽ終わ

りかかった頃で、第三通洞への駕籠電車の線路も剥がされた

後でした。

新居浜市が平成8年に出版した「歓喜の鉱山」によりますと、明

治25年(1892)に着手し、同26年(1893)に完成しました。旧別子

から第一通洞を経た鉱石を、海抜1100mの角石原(かどいしは

ら)から海抜835mの石ヶ山丈(いしがさんじょう)まで、約5.5Kmを

貨車4〜5両を引いて、一日6往復していたとのことです。中間駅

に一本松がありました。機関車は軽便鉄道としてはポピュラー

なクラウス製Bタンクです。山肌を等高線沿いにトレースするも

のですから最小半径15m、最大勾配1/18という物凄いものでし

た。石ヶ山丈からは索道で旧端出場(現在のマイントピア別子遊

覧鉄道の終点)まで下ろされ、そこから下部鉄道で惣開(そうび

らき)まで輸送されていました。

明治32年の大水害による別子山中での製錬が停止されたこと

や、第三通洞の完成(明治38年)と東平・黒石間に索道が完成し

たことで明治44年(1911)に廃止されました。

困難な条件にもかかわらず、着手から完成まで1年と短期間で

あったことで、上部鉄道の上部をほぼ並行して走っていた牛車

道を改築して鉄道にしたという説を記した書籍もありますが、こ

れは明らかに誤りで、現在でも上部鉄道路盤のほぼ20m上方

に、崩れてほとんど痕跡をとどめませんが牛車道が残っていま

すし、別子銅山が作成した地形図にも牛車道跡と上部鉄道跡

が書かれています。

次ページは数種類ある登山ルートや注意点について書き記して

みたいと思います。

(石ヶ山状を出発する列車 近藤廣仲写真集より)

(撤退直後の第三通洞・東平)

(大引割を通過する列車、上部に牛車道が見える。
銅山峰ヒュッテ管理人、故伊藤玉男氏より)