志生木弾薬庫

昭和2年(1927)に佐賀関に豊予要塞司令部が新設され、豊予要塞重砲兵連隊が配備され、各砲台が竣工する中で昭和5年に陸軍桟橋が竣工するのと相前後して、志生木(辛幸)の谷地の奥に豊予要塞各砲台と九州系要塞群の予備用としての弾薬庫が造られた。

佐賀関の軍用桟橋と弾薬庫の間には手押しの軽便鉄道を敷設し、迅速な運搬に備えていたらしい。

洞窟式の弾薬庫3本の他に清涼弾薬庫・木造補助施設・監守衛舎・衛兵所等を備えた規模の大きな弾薬庫だったようで、終戦時には約1,000トンの弾薬類が格納されていたらしい。
(大分県文化財保存協議会著「おおいたの戦争遺跡」より)

(志生木弾薬庫・洞窟式弾薬庫)

大雨の中、それらしい場所に当たりを付けて探してみたが、工事現場の跡で全く手がかりなし。志生木バス停で、通りがかりの老人に聞いても全く知らないとのことで途方に暮れた。

雨の中、資料を読み返すと志生木弾薬庫となっているが、地名の辛幸(からこう)の谷地にあるようになっている。

谷地を整地して住宅地にしている上に、道路も付け替えられているようで、それらしい感じがしない。

たまたま通りかかった40過ぎの男性に聞いてみると、「防空壕ならこの先道沿いにあるよ。」とのこと。

はたして、そこから約100m程奥に進むと、ゴミの集積所になっているが、明らかに弾薬庫入口がある。入口は金網で進入できなくしているが、奥行き10m程の暗闇の中に鉄扉が見て取れる。

そこから道路に沿い、50m程奥地にも同様の弾薬庫があった。

資料では3本の弾薬庫があったのだが、残念ながらこの2本しか見つけることができなかった。

住宅地に紛れてしまい、手押し軽便鉄道の痕跡は全くわからなかった。

(志生木弾薬庫平面図 日本築城史より)