第一砲台東から2番目の砲弾井は、平成22年11月6日に再訪した折にも大きな変化はなく、木々の繁茂が激しくなっている程度でした。

砲弾井は昔から水が溜まり一輪車が放り込まれたままです。小道から登っていく途中に屋根の付いた貯水槽がありました。いまでは屋根が壊れて水槽が露出しています。

駐車場でお土産を売っているオバちゃん曰く、「ここはもともと私の土地で、戦時中は警報が出るとこの防空壕に逃げ込んだが、戦後灌漑用水槽に転用した。」とのこと。お土産のウニを買ったおかげで、ご丁寧に水槽の場所まで連れて行ってくれました。

推測ですがこの水槽(地下弾薬庫入口、隠顕式探照燈かも)から、水のたまった砲弾井まで通じているのではないかと推測しています。

今回の探検ごっこについては、地元にお住いの「吾助のHP」様から、色々と貴重な情報を頂き、また配置図等の資料を転載させていただきました。
また、探検ごっこに際して、目印となる木々等にビニールテープの目印を付けていてくれたおかげで迷うこともなく安心して時間を過ごすことができました。重ねて御礼申し上げます。

ただ、戦時中の施設については、特に要塞関連は秘匿事項が多く、敗戦による処理により資料がほとんど残っていない上に、あったとしても、素人が簡単に閲覧できるような場所にはありません。おおむね地域の古老の伝聞等を基にせざるを得ない部分があります。

素人が唯一手にできた、浄法寺朝美氏著の「日本築城史」は貴重な資料でしたが絶版ですでになく、記載内容にも誤記がある個所も多々見受けられます。

防衛研究所所蔵の「本邦築城史・豊予要塞」を参考にしつつ、「日本築城史」と照らし合わせながら書いているところです。
要塞再整理計画を経て、最終的には15糎カノン砲4門の第一砲台と、30糎短榴弾砲4門の第二砲台が竣工されたのが正確なところだと。
第一砲台の具体的な大砲を据え付けた場所等については不確かな部分が多く、今後の他の方の調査を待ちたいと思います。

佐田岬砲台は一度廃止されますが、本土決戦が叫ばれるようになると、急遽佐田岬灯台と御籠島に12糎榴弾砲を各2門ずつ配備した穹窖砲台が造られ、主に潜水艦対策として豊予海峡の防衛に当たることとなります。

貯水槽を経て最東端から2番目の砲座井へ。最西端の砲弾井には一旦小道に下りて、新たな石段から急斜面を尾根に向けて登攀します

昔は砲台構内を通って最西端の砲座まで行けましたが、季節的なこともありますが今では完全に無理。一旦小道に戻って最西端への取りつけ階段を上り、落ち葉の急斜面を道を登ります。昔、「」吾助のHP」の主宰者の方が目印に残してくれた、色あせた赤ビニールテープが目印です。

砲弾井は石垣に囲まれ海からは完全に遮蔽されており、どこに砲座があったかも定かではありません。指揮所のような円形サークルがありましたが、これが砲座跡とは考えにくい状態です。現代本邦築城史等の専門書を調べても、文書と表のみで配置図等は記載されておらず、残念ながら正確なところは分かりません。