松山電気軌道跡(衣山付近)

線路跡らしい臭い?が漂ってくるのは、山西町の分譲住宅地裏にある朽ち果てた道

でした。フェンスに並んで枕木が植わっていました。もう少し進むと車の轍しか見えま

せん。よく見ると、路盤脇に看板広告の礎石コンクリートが残っていました。昔は国

鉄が高浜線をオーバークロスするあたりからこの看板が見えていました。鉄道ビクト

リアル昭和38年9月号失われた鉄道・松山電気軌道、和久田康雄著から転載します。

伊予鉄道の終点が三津から新しく開港される高浜港まで延長されることになり、今まで賑わっていた三津の町が寂れると地元の人たちは大反対。

三津港の大改築(これが後日、県知事まで巻き込んだ大疑獄事件に発展するとは・・・)とあわせ伊予鉄に対抗した鉄道を企画。資金不足や色々とすったもんだ末、

三津江ノ口〜道後まで電車線路を開通(明治44年、1911年)させました。伊予鉄も負けじと道後〜1番町までを一月早く電化しました。ほとんど並行して走るため

発車の際には、駅員が鈴を鳴らしたり呼び込んだりの争奪戦だったということです。

小さい町での2本の平行鉄道が成り立つ訳がありません。次第に体力の弱い松電が押されるようになり、最後には伊予鉄に吸収合併(大正11年、1921年)され、

市内路面電車区間では両方の線路を整理統合して現在に至っています。

今回はあまり知られていないし、跡形もほとんどない衣山付近の松電跡を辿ってみたいと思います。

(伊予鉄道50年譜より クリックで拡大します)

(路盤横に残る看板礎石、ポイントで昭和38年に)

(@から続く廃線跡A)

(それらしい廃線跡@)

現在の本町線途中から、堀沿いに迂回して平和通りへ入り、ここから築堤を

築いて高浜・城北線をオーバークロスし、六軒家車庫(現四電工本社)へ。

六軒家交差点を横断し、ハローワーク・松山記念病院の前の市道を衣山交差点

を抜けて西進します。交差点角の洋菓子店の所に停留所があったようです。さ

らに市道上を走り、市道が伊予鉄高浜線をクロスする手前で進路を変え、JRを

乗り越え、南側に移っていたようです。昭和初期のほんの一時期ですが、西衣

山では北側から伊予鉄、国鉄(現JR)、松電(伊予鉄が吸収合併後、1067mmに

改軌)の3線が走っていたと、トッポ作の祖父(国鉄職員)が言っていました。

(Aの先、停留所跡とおぼしき荒れ地)