三高山堡塁砲台

広島湾要塞の中の砲戦砲台としては一番重要で、対岸の宮島の鷹巣高砲台と挟撃する態勢を整えていました。
明治期の全国各地の要塞の主砲として座っていた、国産28糎榴弾砲が6門、両翼には観測所があり、また陸正面を防御するために9糎カノン4門、9糎臼砲4門が配備されていたようです。

町村合併前には手入れが行き届いており、自動車道も整備され初心者にもお勧めの砲台でしたが、平成の大合併以降、銭にならないものには金は出せぬ、ましてや負の遺産(トッポ作はそう思いませんが)では、民主的市民団体の方々の賛同を頂けないのは自明の理でしょう。訪れた時期も良くなかったのですが、荒れるにまかせたグジャグジャ状態の一歩手前。改修され地域の集会所として使われていた火薬庫(推定)も荒れ果て悲しい限りです。

(日本築城史より転載)

10数年前に初代マジェスティで訪れた際には、雑草も刈りこまれ、軽装備でも十分堪能できる砲台でした。

その当時の画像を探しているのですが、なかなか見つかりません。見つかった折には定点観測を載せてみたいと思います。

H22.8.17日に、三高山堡塁砲台に再訪したのは、28糎榴弾砲砲座について気になる点があり、再確認のため訪れた次第です。舞鶴要塞の葦谷砲台を訪れた際、日清戦争で威海衛で鹵獲したクルップ式28糎榴弾砲を備えていました。大砲の大家、佐山二郎氏によると、本来このクルップ式榴弾砲は隠顕式砲台であったものを、固定式に改造して葦谷砲台に据え付けたようです。ですので砲座井の跡が残っています。

それに対して国産28糎榴弾砲の砲座について調べてみると、同じく佐山二郎氏著作の「二十八糎榴弾砲解説書」に鉄筋とコンクリートで砲床を設置し多数のボルトを植立し、これに匡床(きょうしょう)の鉄板をはめ込みナットで固定するとなっていました。

その後、固定式砲台から移動式砲座を製作し、日露戦争に送り込み、旅順港砲撃、奉天会戦等、大活躍したことは有名な話です。解説書の平面図を見るとボルトが露出していますが、当時の固定砲台に据え付けられた写真を見ると、砲座にはポルトが見当たりません。もしかすると平面図は移動式の図ではないかと思いました。いままで訪れた砲座は多かれ少なかれ土砂に埋もれており砲座の底面が見えません。しかし、不確かな記憶をたどっていくうちに、三高山の砲座は座面のコンクリートがむき出しになっていたような・・・。で、早速炎天下の下、確認を兼ねたツーリングと相成りました。