T 日清戦争以前

芸予要塞の目的は、敵艦(清・ロシア)の瀬戸内海侵入を阻止して、大阪等の大都市を防護するために建設された。

当時の瀬戸内海(大阪)への進入路は、紀淡海峡・鳴門海峡・豊予海峡・下関海峡の4海峡であった。既に豊予海峡以外には要塞が設置され、敵艦船の通過を阻止することが可能であった。

しかし、豊予海峡については、海峡の幅が広く、当時の要塞砲では射程が届かず、通過阻止が不可能であった。従って瀬戸内海島嶼部に砲台を設置し、敵艦船を射程に収め通過阻止するために芸予要塞を計画した。(昭和2年の豊予要塞、佐田岬第二砲台竣工により豊予海峡阻止がやっと完成する。)

芸予要塞設置については了承されたが、防御線選定については、幾度となく再計画が繰り返されることになる。

@明治6年、フランスから招聘したマルクリー中佐案
A明治8年、原田大佐・牧野少佐案
B明治9年、ミュニエー中佐案
C明治15年、海防局長今井大佐案
D明治18年、ワンスケランベック大尉案
E明治26年、明治26年策定防御計画
F明治30年、改正防禦計画(決定)
E明治26年、明治26年策定防御計画
で忠海・大久野島・大三島北岸に17個所の砲台・堡塁が計画され、伯方島南西部に4個所の砲台、大島西南部・小島・馬島・波止浜に17個所の砲台・堡塁が計画された。(本邦築城史・芸予要塞)

(原剛著「明治期国土防衛史374〜375pから掲載」)

追補 小島砲台 参考資料 原剛著「明治期国土防衛史」より