大久野島砲台

北部砲台は、24糎カノン砲4門と12糎カノン砲4門とで構成されていました。観測所の小山を境として左翼の24糎と右翼の12糎に分られていました。

24糎かノン砲座のうち第二砲座が取り崩されて通路となってしまっているが、残りの3砲座は健在です。砲を据え付けていたボルトの残る砲座もあります。また、太平洋戦争中、毒ガス工場として稼働していた時の薬品タンクが据え付けられていた跡もあります。

由良要塞、深山砲台と同様に横墻の中央部を隧道としています。砲座と砲座の間には地下砲側庫が備えられています。一番左翼の砲側庫は水が溜まっていました。

左翼砲座の横墻は逆「コ」の字型に築かれていて、地下砲側庫や棲息掩蔽部が作られていました。
もしかすると、それらの前庭の広場には発電所があったのではないかと推測しています。
北部突端には、監視所と書かれた案内板があったのですが、小島砲台と同様に、探照燈台が北部にもないと、中部・北部砲台は忠海方面の夜間射撃が困難になります。

観測所は右翼砲座の後ろから階段を上って行きます。山肌を切り取って深い堀切状になっています。観測所手前には控室があります。

観測所には天蓋が取り付けられた跡が見られますが、測遠機を置いた基礎が見当たりません。もしかすると、忠海海峡が狭く、射距離が短いので直接照準で間に合ったため、指揮・伝達をするための観測所だったのかもしれません。

12糎カノン砲座は2門一組で左右対称に作られています。この砲座にスロープで上がるようになっています。

この12糎カノン砲は、砲床の形態から見て、日清戦争の戦利品である克式(クルップ)前進軸12糎カノン砲だと推測されます。同様の砲は広島湾要塞、大君低砲台にも配備されていたようです。

明治期、日清~日露戦争の間に急遽構築された要塞の備砲には、日清戦争での戦利品を転用した箇所が多くあるようです。


大久野島砲台は、日露戦争に備えて、ロシア艦艇が瀬戸内海進入、大阪圏を攻撃するのを阻止するため、来島海峡に浮かぶ小島砲台と共に明治30年から35年(1987~1902)にかけて竣工し、「芸予要塞」を構成しました。
それまで要塞設置場所の経緯については拙ページ「小島砲台」をご覧ください。

大正9年(1920)に豊予要塞が着工され、下関要塞と由良要塞とによって瀬戸内海の封鎖が可能となったので、芸予要塞は大正13年にすべて廃止されました。

その後、太平洋戦争中、大久野島は「毒ガス兵器製造の島」として存続し、地図から抹消される運命を迎えます。

大久野島砲台は、小島砲台同様に北部、中部、南部各砲台と火薬庫、兵舎、船着き場、南部電燈等から構成されていました。現在は各砲台と火薬庫、船着き場、南部電燈が残っています。

北部砲台・観測所

(北部砲台配置図 角田誠氏作図)

(北部24糎カノン砲台跡、取付ボルトの残る砲座、毒物タンク設置台座)

(砲台配置図、赤丸は南部電燈推定位置、角田誠氏作成)