この堡塁は、他の生石堡塁・赤松山堡塁と連携して西部内陸側から侵攻してきた敵を防ぐために明治37年に赤松山堡塁と共に設置され ました。

備砲は9糎カノン砲4門でした。日露戦争後要塞整理で廃止されました。そのままの状態で残してくれればよいのに、敗戦後GHQの指示をうけて徹底的に破壊されました。

堡塁入口を入ると砲台への右手通路と南下する通路に分かれます。交通壕には井戸を含んだ浄水施設、反対側には徹底的に破壊された砲側庫のぺトンの破片が転がります。良く見ると鉄筋は入っておらず無筋コンクリートだったようです。

通路は堡塁を一周する交通壕につながります。交通壕をほぼ一周し林道に接する手前に、壕から堡塁内に直接入るための隧道がありま す。

このタイプはここと、赤松山堡塁にしか見られないタイプのようで、佐世保要塞の石原岳堡塁の側防窖室(カポニェール)につながる隧道とは用途を異にしています。

壕内の隧道を超えると林道(軍道)に出ます。林道を下って再度入口から入り、今度は右手通路を上がって砲座へと向かいます。

ここも細々と破壊されていますが、一応原形を保っています。一番北部の横墻には向かって右に砲側庫、左に同じ造りで壕からつながる隧道が口をあけています。他の要塞と同様ヒンジ等の金具が剥がされています。

(堡塁を一周する壕と隧道)

横墻の先には2門1組の砲座があります。
ここの砲座にはドッカンガラガラと発砲後後退する9糎カノン砲が座っておりましたが、発 砲後の装填時間を短縮するために、後退量を制限するための装置と思われる砲座形態となっていました。

(入口から通路を南下し井戸等・砲側庫を見る)

(砲側庫と、壕からの隧道の出口が連なる)