観測所入口後部にある階段を上り、交通壕に沿って行くと、計画図通りに砲台長指揮所があります。同様の遺構は28糎榴弾砲砲座背墻にも存在します。
そこから判別しがたい道を踏み越えて行くと、右手緩斜面の視界が開け、よく目を凝らしてみると、石造りの遺構が見えました。上がってみると紛れもなく、地区砲兵指令所の観測室部分でした。

砲兵指令所は石材を多用して造られており、観測所の煉瓦造りとは雰囲気が大きく異なっていました。何か異国の神殿遺跡のような感じがしました。

ここも他の砲兵指令所の計画図とは大きく異なっていて、計画図の地下式ではなく、観測所同様の天蓋を被せた露天指揮所のようでした。

副室に当たる部分は、天井部の石材に、装甲を施した屋根部分を乗っけるためのボルトの破片が均等に埋め込まれていました。

副室の窓や扉の部分にはヒンジの金具が残っていましたので、扉や窓がついていたと思われます。

この指令所の測距機も応式測遠機を使用していたようで、3本の石柱が残っていました。(1本は折れ倒れていた)

副室の裏側下段には、電話室跡と思われる遺構が残っていました。2つある室内には木の桟が残っていました。果たして砲台廃止以後、そのままの状態であったのでしょうか。?
鷹ノ巣高砲台の観測所は、地下に棲息掩蔽部(指令室または電話室?)を持つ規模の大きい観測所です。
同様の規模の大きな観測所は、由良要塞・生石砲台に存在しますが、広島湾要塞ではここだけのようです。

三高砲台、鶴原山砲台等は、観測所が砲台内に2カ所(三高砲台に至っては2カ所の観測所に加えて、砲台外に補助観測所がありました。)存在するのですが、高砲台では1カ所だけです。
もしかすると、後述する地区砲兵指令所が兼務するようになっていたのかもしれません。

観測所で特筆すべきは、測遠機の種類とその設置台座の石柱だと思います。
明治期、大体の砲台の観測機器として、武式(ブラッチャリーニ式)測遠機を使用していました。そのための円柱状基礎が良く残っています。

鷹ノ巣砲台では円柱状基礎を取り囲むように、三角形の頂点になるように石柱が建てられています。(現状は2本折り倒されていますが)
これは、三角形の石柱上に応式(オードウェル、間違っていたらご容赦)測遠機を設置したためと思われます。

あくまでも推測ですが、当初は応式測遠機を設置したが、測距離の都合で武式測遠機に変更したのではないかと思います。
観測所
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地区砲兵指令所
(指揮所副室裏側下段に付属する電話室?)
砲台長位置(指揮所)
(高砲台の観測所)
(地区砲兵指令所)