小首地区砲兵指令所

佐世保市「日本遺産」の案内文によると、小首地区指令所は、明治38年(1905)に完成したとのことです。

日露戦争の勃発に伴い、俵ケ浦一帯の指揮所として建設されたとのことです。

同様の指令所は、広島湾要塞の鶴原山砲台、鷹ノ巣高砲台にもありました。

広島湾要塞には、早瀬第一砲台、大空山砲台にも計画されたようで予定図もありましたが、結局未実施のまま戦争の終結を迎えたようです。

ちなみに、早瀬と大空山は、砲台竣工時に砲床構築されましたが備砲はされていません。

また、地区砲兵指令所の上位指令所として、砲兵連隊長指令所も大空山砲台と鷹ノ巣高砲台に計画され、予定図も書かれていますが、結局実現していません。

各地の要塞築城計画には、砲台群を一元化して指揮するための砲兵指令所を、計画として準備しておき、戦闘状態の推移に即して、必要度の高い砲台群から設営されたのではと推測しています。

小首地区砲兵指令所は、小首堡塁からすぐ北部の高地にあります。
軍道は、馬川兵舎方面から伸びてはいるようですが、大きく迂回することになるので、小首堡塁近くの道路から、踏み分け跡が僅かに残る斜面を直登しました。

指令所は、馬川演習砲台と同様、近隣の方の伐採木が積み重ねられていて、何が何やら状態でした。

大体の形状や規模は、広島湾要塞の鶴原山砲台に隣接する指令所と似ていました。

相違点は、鶴原山の指令所は、丸出山観測所同様、鉄製の掩蓋で覆われていたようですが、小首の指令所は、舞鶴演習砲台観測所と同様に、数本の鉄棒の上に偽装網や屋根を渡しかけた物のように推測します。

床中心部には伐採木が山積みされていたのでよく分かりませんでしたが、武式や応式測遠機台座があるようには見えませんでした。

もしかすると、この指令所では直接の測遠はせず、大局的な指示を各砲台に発する施設だったのかもしれません。

鶴原山砲台に行く
鷹ノ巣高砲台に行く

(偽装用鉄棒が残る小首指令所と舞鶴演習砲台観測所)

(雑草や灌木に邪魔され、何が何やら状態の観測所)